ネットギャラリー両界堂 作品 1-4
[ 作品 1-4 ]

聖徳太子と最澄

聖徳太子

聖徳太子(574~622)が亡くなって1400年がたつ。1400年ご遠忌が法隆寺では2021(令和3)年4月2日~5日、太子廟がある磯長山(しながさん)叡福寺では4月10日~5月11日に行われたが、四天王寺では昨年(2021)10月18日~2022年4月22日にかけて行われた。
また伝教大師最澄(767~822)の1200年ご遠忌が比叡山で2021年6月3日~5日に実施された。

日本仏教の基礎を築いた二人のご遠忌が行われた翌年に、あるいは最中に本ネットギャラリー両界堂をオープンすることができたことは大きな喜びである。お二人に感謝し捧げるとともに、その精神、教えを現代に、そして世界へ広げることに貢献できればと思っている。

現在でも、厩戸皇子(うまやとのみこ)はいたが聖徳太子は実在しなかったという説を唱える学者がいる。
『日本書紀』や『古事記』に名前が出ていないからであるという。聖徳太子という名は亡くなったあとの謚(おくりな)、尊称であるので名前が出ていないのは当然である。

飛鳥時代などの古代史の真実については、文献学的な研究だけではわからない。古代史は神話や伝承を含めて、考古学、建築史、美術史、仏教史などにもとづき、総合的な研究が必要であろう。
最近は経典などのデジタル化が進み、用語の出典の分析にも利用できるという。
各ジャンルの研究成果をもとに総合的に考えて、聖徳太子に関係する寺院などを歩いてみると、聖徳太子が実在していたことがリアルに実感できてくる。

聖徳太子は用明天皇の第一皇子で、母は欽明天皇の子、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)である。父の用明天皇は仏教を支持していたが、天皇になった翌年の587年に亡くなった。

聖徳太子の出来事で特に意義あることには、次の5つのことがある。
①587年、数え14歳のときに崇仏派の蘇我馬子らとともに排仏派の物部守屋らと戦う。四天王に祈り勝利したら寺をつくることを誓い、戦って勝利したこと。

②聖徳太子は593年に推古天皇の摂政になり、四天王寺を創建する。翌年に「三宝興隆の詔」が発布され、仏法僧の三つの宝を敬うことになる。つまり仏教が国教となった。

③603年に冠位十二階を定めて豪族による支配ではなく、出自によらず有為の人材を起用する制度とした。604年に「十七条憲法」を制定し国づくりの基本を定めた。第一条「和をもって貴しとなす」は有名であるが、「和の精神」を明らかにし、話し合いをして国づくりをする大切さを強調した。

④607年小野妹子らを第二回目の遣隋使(第一回目は600年)として派遣し、法華経を持ち帰らせた。この年に法隆寺を創建している。このときの法隆寺は若草伽藍と呼ばれ四天王寺と同じ構造・配置で、中門・五重塔・金堂・講堂が一直線になっているものであった。
670年に焼けて693年に再建されたのが、現在の法隆寺である。最初は用明天皇の誓願でつくられ薬師如来像がまつられたが、再建のときは聖徳太子とともに山背大兄王子(やましろのおおえのみこ)の菩提を弔うためでもあったようである。

⑤勝鬘経(しょうまんきょう)、法華経、維摩経を講じ、それらを三経義疏として著わしたこと。勝鬘経は女性も成仏できることを説いている経典であり、法華経は誰でもが仏になれることを説いた大乗仏教の根本経典で、日本の多くの宗派が重んじることになる。維摩経は在家でも仏道を実践することができることを説いた経典である。
三経義疏は元本があって聖徳太子の著作ではないとの説もあるが、独自の解釈をしたり修正をした部分があるようなので聖徳太子の書としてよいであろう。

聖徳太子は622年2月22日に斑鳩宮で死去した。前日に妃の膳太郎女(かしわでのおおいらつめ)が亡くなり、母の穴穂部間人皇女は前年の621年に亡くなっている。『日本書紀』などには、それぞれの死の原因は書かれていないが天然痘などの疫病、感染症であった可能性がある。

三人は円墳で横穴式の磯長陵(しながのみささぎ)に「三骨一廟」といわれる形式で合葬され、推古天皇によってつくられたという叡福寺が管理している。伝統的な古墳の形式と新しい仏教の寺院が共存していることは興味深い。

[注] 聖徳太子の生没年には、複数の説がある。ここでは、「574(敏達3)年~622(推古30)年2月22日に死去  49歳」を採用させていただいた。『聖徳太子と四天王寺』(四天王寺、平成11年)、中村元『聖徳太子』(東京書籍、1990年) 梅原猛『聖徳太子』(集英社文庫、1993年)などの説である。「572(敏達元)年~621(推古29)年 50歳」もあり、『法隆寺ハンドブック』などの説である。なお、年齢は数えである(以下同)。

 

最 澄

アフガニスタンのために30年以上にわたり医師として活躍するだけではなく、水路をつくり農地を増やして貢献してきた中村哲氏は、2019(令和元)年12月に現地の人の銃弾で亡くなってしまった。彼はクリスチャンであったが伝教大師最澄の「一隅を照らす」という言葉が好きであったという。

最澄の「山家学生式」の中に「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」とある。
中村医師は国宝であるとともに、菩薩道を実践し続けた菩薩であったともいえる。最澄の教えは現代人にも、宗派を超えて大きな影響を与え続けているのである。

2021(令和3)年6月には最澄(767~822)の1200年大遠忌が比叡山で実施されたが、その記念事業の一つとして「不滅の法灯」が日本各地をまわった。

最澄は聖徳太子を日本仏教の祖として尊敬していた。最澄は816年(50歳)のとき四天王寺に参詣し、東僧坊に仮住いして六時堂と薬師院を建立した。
その後も四天王寺には最澄の弟子の円仁が法華経や仁王経を講じたり、多くの天台宗の高僧が参詣したり別当などになっている。

四天王寺では現在でも毎年、最澄の命日である6月4日に講堂で法要を行っている。また、聖徳太子(574~622)1400年ご遠忌の記念事業の一つとして、2020 (令和2) 年に最澄像を復興し一乗院というお堂をつくっている。

現在の滋賀県大津市で生まれた最澄(767~822) の出来事で重要なことは、次の3つである。

①数え12歳で出家して、近江の国分寺で得度し、当時の仏教の中心であった奈良に学ぶ。奈良仏教のあり方に疑問をもち、785年19歳のときに比叡山に登り、788年に現在の根本中堂(一乗止観院)を建てたこと。

②804年38歳のとき遣唐使として唐にわたり、天台山で法華三大部をはじめ多くの経典を授かり、法華・密教・禅・戒を日本に伝えて、比叡山に四宗を融合した天台宗を開いたこと。

③比叡山を国家の平和と国民の幸福を願う国宝的な人材を養成する大道場とし、後に法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍などが比叡山で学び、独自の別派の開祖となるなど、仏教の興隆に貢献する多くの人材を輩出したこと。

なお、最澄は密教にも関心を持っていて、唐から帰国した空海に教えを乞い灌頂を受けるが途中で断られてしまった。その後、弟子の円仁(794~864)、円珍(814~891)などが唐に留学し、安然(841?~897?)が天台密教(台密)を完成した。
「顕密一如」つまり密教と顕教は一致しているという重要な結論にいたっている。注目する人は少ないが、現代でも大きな意義がある。「万教帰一」(あらゆる宗教は一つに帰する)の大きなステップになり、現代人にかぎらず未来の人にとっても重要である。

比叡山では昭和62(1987)年以降、毎年8月4日に宗教サミット「世界宗教者平和の祈りの集い」が行われている。昨年は34周年であり今年は35週年になる。
第1回は山田恵諦天台座主が名誉議長になり、世界16か国から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の7大宗教の代表者24名が出席し、日本国内の宗教の代表者を含めて600名が参加したという。
前年の1986年にローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が世界の宗教代表者約100名に呼びかけてイタリアのアッシジで「平和の祈り」が行われた。このとき日本から山田恵諦天台座主をはじめ仏教、神道、諸宗教、キリスト教の代表者9名が参加した。
このことをきっかけにして、山田恵諦天台座主が「比叡山宗教サミット」を発願して、翌年から実現したものである。
ますます重要な意義があると思うので、充実されていくことを期待したい。

 

最澄、天台密教関係の本:
『天台密教<思想と文化>』天台密教展実行委員会事務局、一隅を照らす運動本部、昭和48(1973)年
『天台本覚論』日本思想体系9、岩波書店、1973年
『天台宗』園田香融他、小学館、1986年
『最澄瞑想』梅原猛、佼成出版社、昭和62(1987)年
『天台宗日常勤行式』比叡山延暦寺、昭和62(1987)年
『雲と風と 伝教大師 最澄の生涯』永井路子、中公文庫、1990年
『密教の本』学習研究社、1992年
『比叡山三塔諸堂沿革史』武覚超、叡山学院、平成5(1993)年
『うちのお寺は天台宗』藤井正雄総監修、双葉社、1997年
『天台密教の本』学習研究社、1998年
『円仁 唐代中国への旅』E.O.ライシャワー、講談社学術文庫、1999年
『比叡山を歩く』峰純一・文、辻村耕司・写真、山と渓谷社、2002年
『人のために生きよ 最澄』週刊朝日百科 No.2、朝日新聞社、2003年
『慈覚大師円仁と行く ゆかりの古寺巡礼』ダイヤモンド社、平成24年 2012年
『草木成仏の思想 安然と日本人の自然観』末木文美士、サンガ、2015年
『もっと知りたい延暦寺の歴史』久保智康・宇代貴文、東京美術、2021年

2022.5.1

 

 

 

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